教員一覧

米田 有里(こめだ・ゆり)

教育分野(領域)

日本語・日本文学分野(日本文学)

研究・教育のキーワード

中世文学、和歌文学、古典和歌、後鳥羽院歌壇、権力と『源氏物語』の関わり、中世歌壇における権門歌人

研究者としての私

これまで、和歌を軸に、日本中世文学を研究してきました。学部の頃、源平合戦を目の当たりにした宮廷女房の家集『建礼門院右京大夫集』に出会ったのがきっかけです。華やかな平安王朝文化と恋愛のイメージしかなかった私には、その王朝文化から強い影響を受けながらも、中世の戦乱・混乱と平家の滅亡に直面した女性の眼差しは鮮烈でした。今は特に、この院政期末から鎌倉時代初期にかけての、権力と古典文学・古典和歌の関わりに関心を持っています。

芸術と権力ってそんなに強く結びつくのか、そもそも芸術家って反権力的じゃないかと現代人の目からは思わなくもないのですが、鎌倉時代初期には、摂関家・大臣家といった宮廷社会トップクラスの貴族達から地下(身分の低い)歌人までもが、こぞって和歌を詠み、しのぎを削る時代が訪れました。後鳥羽院を頂点とする歌壇の形成です。中でも土御門家と呼ばれる大臣家の一族は、後鳥羽院と縁戚関係を結び、歌人としても歌壇に加わり活躍しました。大臣家の者であっても、歌人として認められることが重要な意味を持つ、芸術と権力が直接に結びつく時代が、中世なのです。

このように中世について述べましたが、実のところ、「研究者としての私」として語れるほどのものはありません。最初から研究者を目指していたわけでもないし。それよりも、今目の前にある疑問を明らかにすることが楽しく、そうしていたら今に至ったというのが実際だと思います。

特に古典和歌は、積み重ねの芸術です。『古今和歌集』を聖典とし、その表現をもとに新たな境地を切り開いてきました。そのため、古典和歌を分析すると、それ以前の和歌表現との類似や相違がわかります。古典和歌はまず文化を前提とし、歌人達は、その文化を礎に、自分達の表現を模索していたのです。

そういった、当時の人々の考えたこと、感じたこと、文化の在り方を、漢文日記や古典籍の記録、説話、文学といった様々な角度から照らしていく。そうすることで、当時の人々が生きていた時代の片鱗を感じることができるように思います。古典和歌・古典文学は極めて実証の難しい研究領域ですが、「研究者としての私」は、研究資料に誠実に向き合うことをこれからも忘れないようにしたいです。

教育者としての私

自分の中に生まれた疑問を放置しないこと。些細なことだと思って、自分の抱いた違和感を無視しないこと。そして、常に自分の先入観を疑うこと。古典和歌・古典文学研究では、これが重要だと思っています。授業においても、基本的にはこの方針で運営します。

何しろ自分達とは千年近く離れた時代の出来事です。政治体制も違えば、社会規範や倫理観も全く異なります。さらに、虚飾や創作、文学からの流用や模倣が混じるものですから、その内実は一見してわかることの方が少ないと言えるでしょう。しかし私達は、油断すると自分達を中心に考えてしまいます。現在の私達と地続きだけれど異なる文化に向き合うためには、「そういうもんだろう」という思い込みを排することが必須です。

ちなみに、「研究者としての私」で触れた『建礼門院右京大夫集』は、学部の演習授業で扱いました。辞書的な説明や、和歌の分析とともに、「自分の疑問に思ったこと、興味を持ったことについてなんでも調べなさい」という課題を出されたのです。そこで私は、「なんで庭に柳と桜が植わっているのか」を調べました。何でもいいにも程がない?

でも、調べているのは楽しかったですよ。「教育者の私」としては、そうやって疑問を持つことを大切にし、その疑問に向き合って学ぶこと、調べることを、楽しいと思ってもらえると嬉しいです。

私が書いたもの

・「源通親の『源氏物語』摂取―『千五百番歌合』百首を中心に―」(『和歌文学研究』128、2024)*通親が、後鳥羽院歌壇第三度の応制百首『千五百番歌合』において行った『源氏物語』摂取の方法を論じる。後鳥羽院歌壇形成初期における、『源氏物語』摂取の多様さを明らかにし、特定の歌人に焦点が当たりやすい当時の歌壇状況を解き明かす手がかりを示す。

・田渕句美子・米田有里・幾浦裕之・齊藤瑠花共著『阿仏の文〈乳母の文・庭の訓〉注釈』(青簡舎、2023)*鎌倉時代中期の女房阿仏尼が、娘にあてた教訓的消息の注釈。平安時代から近代まで宮廷で重要な役割を占める女房の、規範意識や内部規制を解き明かす。

・「『古今著聞集』和歌部が描く蔵人の風雅―百五十九段を中心に―」(『日本文学』68-8、2019)*当時の漢文日記をもとに、詳細不明とされた人物の素性を明らかにしたもの。そのうえで、『古今著聞集』において当該説話がどのような意味を持って収められたのかを論じる。