川野 惠子(かわの・けいこ)
教育分野(領域)
哲学・芸術学分野(美学)
研究・教育のキーワード
美学、フランス芸術思想、啓蒙思想、諸芸術比較、絵画、舞踊、演劇、近代芸術
研究者としての私
18世紀のフランス美学を研究しています。中高時代から芸術、とくにバレエが好きで、岡大と同様、美術史、芸術・美学の先生方が一つの専攻に所属されている美学美術史学専攻というところに進学しました。そこで美術史、オペラや工芸、アート・マネージメントとさまざまな領域の授業を受けましたが、自分の最大の関心であった舞踊がほとんどの芸術領域を収める専攻のなかであまり研究されていないことに気づきました。舞踊学は比較的新しい研究領域で、しかも舞踊はエフェメラルな芸術で資料が残らないので、伝統的な学問領域にそぐわない側面があります。今日ではだからこそ、舞踊学には舞踊学なりの使命や強みがあることも理解していますが、当時は伝統的な領域に舞踊研究を組み入れたいという若い野心があり、一貫して美学美術史学領域で教育を受け、研究してきました。そのため、伝統的な学問領域に適う形での舞踊研究を見つけることそれ自体に当初とても苦心しました。「舞踊」研究なのだから、台本研究でも音楽研究でもなく、「舞踊」を問題にしようと、美術史学の様式比較という方法を用いて舞踊を分析する修士論文を書きました。ただ当時の恩師が定年退職したこともあって進学先を変え、新しい環境のなかで、研究を続けるためには、長く続けられるテーマと方法がより厳密に求められることに気づきました。その後迷いに迷い、美術館で働いたり、関東から関西に移動したりと紆余曲折し、最終的に18世紀の舞踊理論を美学的にテクスト分析するというテーマと手法に行き着きました。こうしたこともあって人より何倍も時間がかかってしまいましたが、最近その研究を纏めた『身体の言語——18世紀フランスのバレエ・ダクシオン』という本を出版しました。
18世紀に「台詞」を「舞踊」に代えて演劇を上演しようとする「バレエ・ダクシオン」という動向が汎ヨーロッパ的に流行します。一般的に「言葉」を用いて台詞を読み上げるよりも「舞踊」によって表現する方が不明瞭です。「この人はわたしの甥です」と舞踊で伝えることはほぼ不可能です。それなのに、なぜわざわざ「台詞/言葉」を「舞踊/イメージ」に転換するということが流行したのか、本の中でこうした問いを追求しました。その背景には哲学、とりわけ言語観の大きな変化がありました。当時経験主義という新しい哲学的動向のなかで、言語が神から与えられたものではないとしたら、人間はどのように言語を獲得したのかを問う言語起源論が流行します。そのなかで、知性の特権とされてきた言語概念が身体や芸術作品といった感性的表象にまで拡大し、しかも言語としての身体や芸術作品にに特有の言語価値も探究されました。言語とは一般に「正確に」「厳密に」伝達するための媒体です。しかしこの時代、芸術表象による言語活動は、「文法」を持たないがゆえに不正確であるけれども、一方で規則に拘束されない自由な言語表現を得意とし、しかもそうした自由な言語表現には言語の受け手に言語理解における能動性を喚起する特質があると論じられました。「台詞」ではなく「舞踊」による演劇の流行は、こうした新しい言語観の実践の場であったといえます。つまり、バレエ・ダクシオンとは当時の言語思想を象徴する運動だったのです。こうした問題を解くことは、人の認識能力のなかで「感性/イメージ」の力を積極的に認め、「美学」という学問を成立させた当時の思想的背景に迫ることにもつながり、伝統的な領域での舞踊研究というわたしの若い頃の夢を果たすことができたと考えています。
最近はバレエ・ダクシオン研究のなかで啓蒙思想家ディドロの言語起源論を読んだことをきっかけに、広くディドロの芸術思想の研究に取り組んでいます。近代という時代を作り上げることとなった18世紀の啓蒙主義哲学者は、社会的な制度や物の考え方など、あらゆる事柄の再定義に取り組みました。ディドロもその一人ですが、しかしそのなかでも飛び抜けて芸術に関する多くの論考を残しました。ディドロが生きた18世紀は、神に代えて自然科学が新たなパラダイムとなる転換の時代であり、今日もその地続きであるといえます。ただしディドロはそうした自然科学が支配し始める時代の中で、芸術の領域においては自然科学の法則を無視した表現——例えば無重力、浮遊——がいまだ存続していることに着目します。こうしたことから、ディドロにおいて芸術の領域は自然科学が支配する近代においてもなお、自然法則を無視して自由に発動する人間の不可思議な認識能力を問う重要なフィールドであったのではないかと仮説を立て、芸術論だけではなく、広く宗教論、自然科学論といったディドロの幅広い論考のなかからその芸術論の分析に努めています。
教育者としての私
天文学、哲学、歴史学が古代からある学問であるのとは異なり、「美学」は18世紀に誕生した新しい学問領域です。伝統的に、思惟すること(知性的認識)に比べて、何かを見たり、聞いたりといった感覚すること(感性的認識)は信頼のならない、時に知性の正しい働きを阻害しさえする認識だと考えられてきました。しかし18世紀に感性的認識にはそれ特有の合理性があると考えられるようになって「美学」という学問が成立します。つまり「美学」は、人々の認識の枠組みが18世紀に大きく転換することによって生まれた学問であり、この転換点の理解を促すことが、美学を教える上で大事なポイントの一つだと考えています。これまでバレエ・ダクシオンを主題に18世紀の言語論を読み解きながら、広くいえば「言葉/テクスト」と「像/イメージ」の対比を研究してきましたが、これは知性と感性の対比の問題でもあり、美学という学問の成立を説明する際のよい手がかりになると考えています。ですので、教育においては、バレエ・ダクシオンに限らず、古代から現代に至るまでのテクストとイメージの対比理論——それは具体的にいえば諸芸術比較論として展開します——を広く扱い、美学という学問の成立経緯や、この学問領域がどういったことを重視する領域なのかという点をわかりやすく伝えるよう努力しています。
同時に力を入れているのは外国語の原典講読です。概説的なテクストではなく、ある時代の美学的思潮を作り出した原典を読解し、分析することで、概説では取りこぼされるようなその時代の思潮を細かく把握する力をつけてほしいと願っています。わたし自身、よい先生から外国語の文章を読む方法を教えていただき、それにより翻訳に頼ることなく、必要な文献を読めるようになったことが研究者として生きる最大の糧になりました。この力は研究に限らずメディアの氾濫する今日において、さまざまな言説を多言語を駆使して独立的に考え、社会を生きる力として広く応用されると考えています。
私の書いたもの
主著は『身体の言語——18世紀フランスのバレエ・ダクシオン』(水声社、2023年)です。前半は18世紀フランスの言語論、後半はバレエ理論の分析で、全体として身体による言語とは何かという問題を扱っています。そのほかディドロの芸術論に関する論考としては「ディドロのシミュラークル概念と新旧美術論」『関西フランス語フランス文学』(日本フランス語フランス文学会関西支部、2021年)、「ディドロの「関心」概念と作品の物質性」『文芸学研究』(文芸学研究会、2023年)などがあります。邦訳の少ないディドロの翻訳にも取り組んでおり、言語理論である『聾唖者書簡』の翻訳を連載中のほか(『美学芸術学論集』神戸大学芸術学研究室、2022 ; 2023 ; 2024年。)、美術論の翻訳も公開しました(「『文芸通信』に掲載されたディドロ美術論の翻訳:「ウェブ氏による絵画に関する著作」、「ブーシャルドンと彫刻について」(1763年)」『名古屋大学人文学研究論集』7号、名古屋大学人文学研究科、2024年、409-427頁)。とりわけ翻訳については広く批判を賜ればと思っております。