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映画上映会「『首相官邸の前で』ー反原発デモと人文学」を開催しました。

12月17日、岡山大学文学部と2015年度文学部プロジェクト研究「貧困とマイノリティ/マージナリティ:人文・社会諸科学による学際的アプローチ」は映画上映会「『首相官邸の前で』ー反原発デモと人文学」を開催いたしました。約130人の方々にご来場いただき、文学部のみならず様々な学部学生と市民の皆様とが交流する場となりました。

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映画『首相官邸の前で』は、慶應義塾大学教授の小熊英二さんが監督をつとめた、原発政策に抗議するデモの様子を記録したドキュメンタリーです。インターネット上に投稿された映像記録と8人の体験談を織り交ぜた本作は、戦後日本の代表システムと報道メディアの機能不全、市民社会の成長と停滞、高度成長を果たした日本経済が抱える矛盾と貧困問題―そしてそうした問題を観察・考察し続ける人文学のあり方について考える機会を与えてくれました。

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映画鑑賞後にスカイプで小熊英二さんからお話を伺う予定だったのですが、手違いで実現しませんでした。その代わり急きょグループディスカッションを行い、会場で映画を見た感想や日本の社会運動について意見を共有する場を設けました。小熊さんからは次のようなコメントを頂戴していますので、ここで紹介させていただきます。

大貫先生に企画していただいた上映にあたり、私の落ち度でスカイプ参加ができず、たいへん申し訳ありませんでした。ただ、グループ討論に切り替えていただいたことで、かえって相互に話し合う機会を持っていただいたことは、とてもよいことだったと思います。かえって、私の話を一方的に聞くより、よかったかもしれません。

岡山については、邑久が私の曽祖父の出身地であり、幼少時は何度か訪ねましたが、あまり多くを知りません。そこで、そのような土地で、この映画がどのように観られると思うか、一般的なことを述べます。

私はこの映画を、世界に数ある街の一つでおきた、普遍的な現象を描くつもりで作りました。つまり、恐怖と不信に突き落とされた人々が、どのように声をあげ、力と信頼をとりもどしていくかについての物語です。

西日本にいて、事故当時に放射能の恐怖を感じなかった地域の人が、関心のあり方が異なるのは当然です。「東京の出来事」だからといって、日本の出来事を代表しているとは思いませんし、日本中で見習うべきだというわけでもありません。

しかし、そういう次元をこえて、普遍的な物語を共有してもらいたいと思います。人間として当然の反応をすること、それを自分や「世間」の中にある制約をのりこえて表現していくこと、そうすることで不信と分断を克服していくこと、そういったことを、受け止めてもらいたいと思います。

そうして、従来の制約や固定観念を見直し、新たな地点から社会を考えてもらいたいと思います。この映画は、観客に特定のメッセージを発するより、そういう思考の地平を開くことを意図しました。

あまりに一般的なコメントになりましたが、観た人々の一助になれば幸いです。ありがとうございました。

小熊英二

また、ご参加下さった学生の1人が以下のような感想を寄せてくれましたのでご紹介いたします。

本日映画上映会&講演会「首相官邸の前で 反原発デモと人文学」に参加させていただきました。あらためて原発のこと、政治のことに向き直るよい機会になりました。ありがとうございました。拙いものではありますが少し感想をお伝えできればと思い連絡させていただきました。

映画自体もデモ運動の流れを追体験するかのように思え面白かったですし、参加者の人たちと話せたこともとてもよかったです。原発の問題やデモが起こっているということを自分のなかでどこかうまくうまく引き受けられずにどうすればいいのかと考えていましたが、他の参加者の方たちも同様の悩みをもっていらしたことが話を聞いていてわかりました。

おそらく関西圏に身を置く人が多い中で、原発問題やデモの熱気に対して、いかに自分の問題として考えられるかを考えた際に、「想像力」や「共感」ということが話題にされたグループも少なくないのではないかと思います。私たちのグループがそうでした。私たちのグループでは他に、デモに参加することでまわりからどう見られるのかという不安、徐々に問題に対する感度が落ちて行ってしまう怖さ、運動を継続していくことの大切さ、手軽に政治的に動ける方法はないのかということが話題に上りました。

私自身は、映画を観ながら、怒り方を学ぶべきなのかもしれないと感じました。何かしらの問題に対して訴えを起こしデモをすることが特別なこと、特殊なことととらえられるのではなく、そもそも為政者に対して怒りを表現することがごくごく普通のことになればいいのではないか、子供が叱られながら成長していくように、上の世代が怒りを表現している姿を見ることで次の世代が「こういうときは怒っていいんだな」と自然に思えるようになることで政治意識も培われていくのではないかと思いました。その怒りを表現する方法は今回のような大規模なデモであったり、あるいはもっと小規模なものでもいいのだと思います。具体的に怒りや訴えをもった人々が集まっている場で人々が訴えている姿を見ることは想像力や共感をはぐくむことにもなるのではないかという気もします。映画のなかで、デモを翌週も続けるためにその日は一旦解散してくださいと呼びかけられていた場面が印象に残っています。またデモが日常の延長線上にあるようにということも言われていました。いまのところ私は怒り方を覚えるということでそのようなことを考えます。ただ闇雲にデモを続けるのではなく、継続的に怒りを表現していく仕方を見つけていくこと。そもそも国政レベルだけでなく地方レベルでも、私たちは怒っていいのだということを自然なことにしていければいいなと考えました。悲しいことがあれば少し音楽を聴いて落ち着いてみたり、身体を動かして気分を変えたりするように、理不尽だなと感じたことがあれば自然に怒りを表現できるような仕方があればいいのではないか。いまはそう漠然と思うにとどまるのですが、すでに選挙権をもって数年が経過している身としても、今後市民社会がどうなっていけばいいだろうかということを継続的に考えていきたいと思いました。

普段から政治には疎く、ほんとうにただ単なる感想のようなことを書いてしまいお恥ずかしいかぎりですが、一学生の感想としてお届けさせていただきます。

この度は非常に多くの方々にご来場下さり、まことにありがとうございました。日程上の混乱があり、ご迷惑をおかけしてしまったことについて改めて深くお詫び申し上げます。今後も岡山大学文学部は、学生・市民の皆様が集い、現代的問題を考える場をもうけて参ります。ご参加のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(文学部 大貫俊夫)